2008年2月。Noism08における今年最初のステージは、アメリカ・ワシントンから始まった。ワシントンDCで行われたイベント「ジャパン!カルチャー+ハイパーカルチャー」のオープニング演目のひとつに、Noism08が選ばれたのだ。 「ジャパン!カルチャー+ハイパーカルチャー」とは、米国国立記念館「ジョン・F・ケネディセンター」を舞台に、舞踊や演劇、音楽、アートなど、多彩な日本文化の紹介を目的として催された一大フェスティバル。舞踊ではNoism08のほか、新国立劇場バレエ団、山海塾、笠井叡など、実に豪華なメンバーが顔を揃えた。
Noism08が披露したのは、『NINA−物質化する生け贄』。 2005年の日本初演時以来、北南米ツアー、モスクワ公演を含めすでに1万人以上を動員している、まさにNoismの代表作である。なかでも今回は海外ツアーバージョンに、さらにワシントン向けに手を加えたアレンジ版での上演ということもあり、開幕前から期待は自ずと高まってゆく。
仄かな灯りのもとぼんやりと浮かび上がる、何の装飾もない陰影のステージ。舞台上に佇むのは、時計仕掛けの人形のように感情を持たない女たちだ。 色を無くした空間で、女はひたすらぎこちない動きを繰り返す。その姿は、囚われ人のようにも、単なる物質にも、何かの抜け殻のようにも見える。それを無造作に操るのは、スーツに身を包んだ黒服の男たち。彼らは人形遣いか、支配者の象徴か、はたまた生け贄の番人か・・・。 淡々と繰り広げられる男と女の無言劇を目に、様々な思考が渦巻く。とはいえこの作品が内に秘める情熱の前では、解釈や粗筋の探求など全て空虚な作業に思えてしまう。
抑圧の狭間にかいま見える、力強い生命の光。徹底して削ぎ落とした動きが紡ぐ、研ぎ澄まされた美しさ。圧倒的な緊迫と静寂に満ちた世界の中で、観客にできることはごく僅かだ。瞬間瞬間の時の重なりを共有すること。そしてただ、息を飲んで舞台の行方を見守ること。
これだけ“踊れる”ダンサーをストイックなまでに抑制して魅せる、金森穣の手腕には今更ながら驚きを感じずにいられない。またダンサーたちも、金森の期待にしっかりと応えたようだ。特に目を奪われたのが、初日と2日目に各々ソロを踊った井関佐和子と中野綾子。井関は元来際立った踊り手だが、さらにひと皮剥けた感がある。井関がそこにいるだけで、舞台がキリリと締まるのだ。これは“存在感”と言い換えてもいい。最古参のメインメンバーとしてカンパニーを引っ張っている責任感と、プレッシャーとの絶え間ない戦いが彼女をより高めたのだろう。一方中野は、踊りに1本スジが通った印象を受けた。海外での得難い経験と大役への挑戦が、大きな自信に繋がったのかもしれない。
初演時よりグッとシャープになり、無機の質感を高めた今回のステージ。凝縮されたテーマから喚起される想いは、どこか切ない哀愁としみじみとした余韻を残した。どこまでも深く、静かな結晶は、ワシントンっ子の心も大いに揺さぶったよう。閉幕と同時に観客は一斉に総立ちとなり、会場はブラボーの声と熱気の嵐の中に。筆者はフェスティバルの期間中、舞踊・演劇を含め全ての演目を観覧したが、これほどまでの反響は異例のことだ。後日、ワシントンポスト紙が『金森穣は非常に興味深いアーティスト。ヨーロッパ的な動きの中にも日本特有の静かなメッセージが伝わる作品で、観ていて引き込まれるものがあった』と高評価を記したのもその証拠といえよう。
ワシントンでの公演を終え、カンパニーは引き続きミシガン公演へ。 こちらも『NINA〜』を演じ、やはり大盛況の内に幕を閉じたと聞く。 その確かな実力をもって、日本はもちろん、海外へと舞台を広げつつあるNoism。加えて秋には『NINA〜』の国内再演も決定。ここでは世界各地で絶賛を浴びた海外ツアーバージョンを日本初上演するという。国境を越え人々を魅了してきた珠玉のステージを、再び目にできる日を心待ちにしたい。
文/小野寺悦子(おのでらえつこ)
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この度2度目のスタジオ公演を試みる。 2005年にNINAで模索し、ある確信を得た“物としての身体に宿る表現”を、更に微細なレベルで追求/模索してゆく。そしてその模索に適した空間は、狭く凝縮された空間=スタジオサイズである。なぜなら至近距離でしか堪能出来ないほどの微細な表現、そして質感というものが存在する事を、能舞台での公演や、前回のスタジオ公演から我々は学び取ったからである。そして微細な表現、最小限の所作が形容し、その所作に宿る表現とはどれほど微細な表現なのか、あるいはどれほど豊穣なる表現となり得るのか。その事の本質を追求/模索する事は、表現者として避けては通れない道であり、Noismセカンドサークル(3年間)を劇身体の本質を追求する期間と定めた我々にとっては、まさに避けては通れない道である。
金森穣