傑作時代小説に描かれた、秘められた恋

藤沢周平の小説の中でも、ひときわ光を放つ作品「蝉しぐれ」。
海坂藩(うなさかはん)という北国の架空の城下町を舞台に、牧文四郎という若者を中心に小説は進展します。この文四郎を幼少より心ひそかに慕う“ふく”との恋物語を軸に舞台は構成されます。
運命のいたずらによって別れと再会を経た、文四郎とふくとの至純の恋をたっぷりと味わってください。
映画音楽をはじめ世界的に活躍する作曲家・岩代太郎の音楽が、物語を一層深めます。

主人公の文四郎を幼馴染のふくとの長く秘められた恋物語を中心に描きます。

岸惠子 岸 惠子(きしけいこ) 神奈川県横浜市出身。1951年「我が家は楽し」で映画デビュー。「君の名は」(53年)「雪国」(57年)「おとうと」(60年)「細雪」(83年)と名作に出演、現在も映画・テレビと第一線で活躍している。01年映画「かあちゃん」<市川崑監督>で第25回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。40年あまりのパリ暮らしの後、現在はベースを日本に移しながらフランスと日本を往復する。海外での豊富な経験を生かし、作家、ジャーナリストと多方面でも活躍する。04年旭日小綬章を受勲。11年フランス共和国政府より芸術文化勲章コマンドールを受勲。近年の主な映画出演作として「たそがれ清兵衛」<山田洋次監督>(02)、「スノープリンス 禁じられた恋のメロディ」<松岡錠司監督>(09)など。またテレビでは「恋せども、愛せども」(07年・WOWOW)で第62回芸術祭優秀賞受賞。他に日本テレビ開局55周年記念スペシャルドラマ「東京大空襲」(08年・日本テレビ)、TBS開局60周年記念橋田壽賀子ドラマ「JAPANESE AMERICANS」(10年・TBS)など。著作では、「巴里の空はあかね雲」で日本文芸大賞エッセイ賞、「ベラルーシの林檎」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。その他の作品に「砂の界へ」「風が見ていた」「私の人生ア・ラ・カルト」「30年の物語」。絵本「パリのおばあさんの物語」(作:スージー・モルゲンステルヌ)の翻訳も手がける。初の書きおろし小説「わりなき恋」(幻冬舎刊)が今春発売となる。

藤沢 周平『蝉しぐれ』(文春文庫)より

上演台本 笹部 博司
演出 黛 りんたろう
音楽・演奏 岩代 太郎
照明 倉本 泰史
音響 高橋 巌
舞台監督 北条 孝
協力 藤沢周平事務所 藤沢周平® 海坂藩®
制作協力 ジェイ.クリップ
企画・製作 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館

岩代太郎 音楽・演奏 岩代 太郎(いわしろたろう) 1965年東京都出身。東京藝術大学音楽学部作曲家卒業、同大学院修士課程修了。修了作品「世界のいちばん遠い土地へ」がシルクロード管弦楽国際作曲コンクールにて最優秀賞を受賞。以後、テレビ・映画・アニメ・舞台など幅広いジャンルで活躍。映画「血と骨」(04年)、「春の雪」「蝉しぐれ」(05年)で日本アカデミー賞優秀音楽賞、「闇の子供たち」(08年)で毎日映画コンクール音楽賞、「レッドクリフPart I」(08年)で香港電影金像奨最優秀音楽賞を受賞。近年では08年北京オリンピックのシンクロナイズド・スイミングの音楽や、09年11月に行われた「天皇陛下御即位20年国民式典」での奉祝曲「太陽の国」の作曲など活動の場を広げている。他代表作に映画「火天の城」、「カムイ外伝」、「舞妓Haaaan!!!」、「聯合艦隊司令長官 山本五十六」、「かぞくのくに」、テレビ「黒部の太陽」。NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」、「義経」など。


原作 藤沢周平

1927年、山形県鶴岡市に生まれる。山形師範学校卒。71年に「溟い海」でオール讀物新人賞、73年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞。86年に「白き瓶 小説 長塚節」で吉川英治文学賞を、89年に菊池寛賞、94年に朝日賞、東京都文化賞を受賞。95年に紫綬褒賞を受章。97年、逝去。主要な作品に「蝉しぐれ」「三屋清左衛門残日録」「一茶」「隠し剣孤影抄」「隠し剣秋風抄」「霧の果て」「海鳴り」「橋ものがたり」「用心棒日月抄」「たそがれ清兵衛」「市塵」など。全26巻、別巻1巻からなる「藤沢周平全集」が文藝春秋より刊行されている。

「蝉しぐれ」に寄せて
りゅーとぴあ演劇部門芸術監督/蝉しぐれ」上演台本執筆 笹部博司

今、新潟発の「物語の女たちシリーズ」の四作目に当る、岸恵子さん出演の「蟬しぐれ」を全国で公演中です。
この公演の一部ツアー先には文化庁の助成がついていて、主催してくれる劇場には、交通費と宿泊費が出ます。
その助成をもらうには、どんな形かのワークショップが義務づけられています。
そこでわたしは、この芝居のプロデューサーとして開演前に一時間弱、「蟬しぐれ」について色々と話しています。
これはその話の内容です。
なかなか好評なので、すでに公演をご覧いただいた皆さんにも知っていただきたく、りゅーとぴあのホームページで立ち上げてもらうことにしました。

これから岸恵子さんの「蟬しぐれ」をご覧いただくのですが、こういうところを見ていただきたいなと思うことを少しお話したいと思います。
俳優のこころに起こったこと、それが演劇である、わたしはそのように考えています。
俳優のこころが空っぽだと、舞台を豪華に飾りたてて、きらびやかな衣装をきても、空虚である。
俳優の心の中に、一滴の言葉を垂らします。
するとその一滴の言葉は、たちまち、俳優の心の中で雲になって、その雲は風を呼び、雨を降らせ、雷を轟かせ、そして嵐を巻き起こします。
観客は俳優の心の中に起ったその嵐を見るんです。
それが演劇だと思っています。

岸さんのこころに雲がかかる、今日は、その雲から目をそらさないでいただきたい。
一滴のことばが心を満開にさせる。
それを見ていただきたい。
ことばの後ろには人間の心があります。
その心はいろんな思いを抱えています。
岸さんは言葉の後ろにある、その思いを見ているんです。
するとその思いが、たちまち、岸さんの心の中に宿る。
悲しい思いに触れると、たちまち、岸さんの中に、その悲しい思いが溢れてくる。
すると、それは今度、見ている人のこころに伝播し、観客も悲しくなる。
温かい思いに触れると、温かくなり、冷たい心に触れると、こちらも冷え冷えとしてくる。
演劇というのはつまりはそういうことだと思います。
大事なことは、それが今まさに心に起ったことであるべきだということです。
嘘の感情ではダメなんです。
作りものの感情や見せかけの感情ではダメなんです。
今まさに起こったこと、本物の感情、真実の感情が必要なんです。
心の中まで見えない。
でもその心の中が嘘か本当か、それが大事です。
見えなくてもだんだん見えてくる。
舞台の上では特にそうです。
はっきりと見えてくる。
その言葉の後ろにある感情が嘘かほんとうかが。
わたしたちの心の中には見せかけを超えたものが、隠れています。
本物の感情に接したとき、わたしたちの奥底に隠れている見せかけを超えたものが、導き出されていく、それが演劇です。
見えないものが見えてくる。
それが演劇です。
そういう心を共有する場が、劇場です。
演劇というのは、普段決して現われることがない、人間の心の奥底に潜む見せかけを超えたもの、そんな心が出会う場所です。

ことばのうしろに切ない思いを岸さんは見つける、すると岸さんも切なくなる。
ふくの切なさを、岸さんはそっと取り出して、それをわたしたちの心に届けてくれる。
今日は、そういうことを見ていただきたいと思います。

藤沢周平さんは、海坂藩という架空の場所を舞台にたくさんの小説を書いておられます。わたしはその場所は、藤沢周平さんの心の中の日本だと思っています。そして、海坂藩を舞台にした物語の中で、代表作と言われているのが「蟬しぐれ」です。
文四郎という剣に生きる下級の武士が主人公ですが、文四郎はさまざまな試練と苦難の中をたくましく生き抜いていきます。
敬愛する父親との死別があり、友情があり、お家騒動に巻き込まれ、剣による命のやり取りがあります。
そしてその物語の中心に、文四郎とふくの恋があります。
今回は、その文四郎とふくの恋物語を中心に構成しました。

冒頭、ヘビに噛まれたふくの指を文四郎が口で吸って、毒を吐き出すという場面から始まります。
その出来事に動転しているふくは、お礼もそこそこに家のなかに駆け込みます。
翌朝、昨日と同じように、小川でふくはものを洗っています。
原作はこうです。

ふくは文四郎を見ると、一人前の女のように襷(たすき)をはずして立ち、昨日の礼を言った。ふくはいつもと変わらない色白の頬をしていた。
「大丈夫だったか」
文四郎はそう言ったが、ふくの頬が突然に赤くなり、全身にはじらいの色がうかぶのを見て、自分もあわててふくから目をそらした。

ふくは一人前の女のように襷をはずして、礼を言うわけです、そして文四郎に「大丈夫だったか」と言われて、ふくの頬は突然赤くなり、全身にはじらいの色がうかぶわけです。
ふくにとっては文四郎があこがれです。でもその心のうちは秘密です。
だから、なるべく普通に、挨拶をしようと思う、しかし、「大丈夫だったか」といわれると、たちまち自分の頬が赤くなって、全身がはじらいいっぱいになってしまう。
それを見て、文四郎もあわててふくから目をそらす。

こころの中に起ったこと、それはつまり突然の感情です。
突然の感情が、心の秘密をあらわにしてしまう。
岸さんが見せてくれるのは、そんな心の瞬間です。
誰だって、そんな瞬間を記憶の奥底に持っているはずです。
そして岸さんの心の中にあるのは、そんなふくへのほほえましさ、思いやり、温かさです。
この時、ふくは十二歳で、文四郎は十五歳、岸さんは、心の中に咲いた恋のつぼみを実に見事に見せてくれます。

次の場面は、こうです。
文四郎は十歳くらいの頃から三つ下のふくを伴って熊野神社の夜祭りに行っています。ふくにとってそれがなによりの楽しみだった。
しかし、その年は事件が起きて、文四郎がいなくなってしまった。祭りがおわっても文四郎は返ってこない。ふくはひたすら待ち続ける。やっと帰ってきた文四郎は鼻血をだしていて、どうやら喧嘩をしてきたらしい。
文四郎はぶっきらぼうに帰るぞといって、すたすたと歩きはじめ、ふくはそのあとを追う。

その場面を読んでいるとき、岸さんの心の中に何があるのか。
岸さんの中では、その情景がくっきりと見えています。
祭が過ぎて、がらんとした中で待ち続けるふくの、頼りなさ、切なさとか・・・
でも、それだけではない。
岸さんの頭の中には、時を経たふくが、記憶としてのそんな自分を見ている情景があります。
みなさんの中にもそんな情景があるのではないでしょうか。
頼りなさと切なさで待ち続ける自分・・・
そして次に、岸さんの人生観があります。
岸さんはこういっているんです。
その記憶は宝物だと。
岸さんは、その情景を甘美な思い出として、抱きしめる。
だからなんだか涙がこみ上げてくる。
それは見ているお客さんが、自分を記憶を抱きしめているからなんです。
演技というのは、他者の人生を通して、自分の心の秘密を告白することだと思っています。
岸さんが見ているそんな切ないふくの情景の向こうには、自分のそんな情景が無意識に重ねられている。
岸さんは計算してそうしているのではなく、無意識でそうしている。
まったく天然ですね。

あるいは、こういう場面があります。
もう最後のあたりです。
十二歳のふくが突然、江戸へ呼ばれ、奥にあがり、殿様の手が付き、子をなす。
ふくは殿様の側室で、家臣である文四郎にとっては、雲の上の存在である、お方さまになっている。
そして五年ぶりに、再会します。
その場面は、こういうふうに書いてあります。

文四郎は顔を上げた。するとそこにふくが座っていた。

わたしはいつもこの一行に一番感動させられます。
まさにこの言葉の一滴が、岸さんの心の中に満開の花を咲かせるのです。

そこにふくが座っていた。

文四郎がその時、見たものは一体なんなのか。
それを岸さんはどう見たのか。
なんだと思いますか?
ひとことでは言えない、たくさんのものがそこにはあります。
まず、そこに座っていたのは、自分の心の中に棲みついていたふくです。
いささかも変わっていない。
そしてもう一つ見つけたものは、自分がどんなにふくを愛していたか、どんなにふくのことを思い続けて来たか、いや、今現在どんなにふくを自分が愛しているか、その心を見つけたんです。

するとそこにふくが座っていた。

ここにも突然の感情があります。
そして文四郎はその突然の感情に一瞬呑みこまれてしまう。

するとそこにふくが座っていた。

文四郎の心に起こったことが次の文章の中にこう書かれています。

文四郎は熱いものがこみ上げて来て、胸が詰まるように思いながらつづけた。
「ご健勝の様子にて、何よりと存じます」
その言葉の後ろにはまさに文四郎の万巻の思いがあります。

もう一つ、場面をあげましょう。
物語の最後で、まさに「蟬しぐれ」の中で、一番有名な場面です。

「文四郎さんの御子がわたしの子で、わたしの子どもが文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」
「それが出来なかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」
「ほんとうに? ・・・うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのでしょうね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中ですこと・・・」

このセリフをしゃべっているときに、岸さんの心の中にはなにがあるのだろうと思うのです。
別にきいてたしかめたわけではない。でも、前口上ではっきりとおっしゃっています。
ここに描かれている恋は、添え遂げることが出来ない恋だが、その恋の中で、ふたりは見事に自分たちの思いを昇華させている、だから晴れやかだと。
「この世に悔いを持たぬ人などいないでしょう。はかない世の中ですこと・・・」
この時、ふくは自分の運命を儚いと思っているが、まったくそうじゃない。
岸さんの解釈はおそらくこうです。
ふくは自分の運命をなげいてはいない、また悲しんでもいない。
ふくはふくで、運命の中で、これ以外にない人生を精いっぱい生きた。
岸さんは、ふくの人生を賛歌しているんです。
苛酷な運命に従いながらも、その中でしなやかにしたたかに生き抜いた。
つまり、岸さんは自分がそうだったと言っているんです。
岸さんは、ふくを通して自分の人生を賛歌しているんです。

この世に悔いを持たぬ人などいない。
とするとその悔いを心の中でどう受け止めるかである。
そこで岸さんの、人生に対しての考え方がこのふくのことばで見えてくる。
悔いは決してマイナスではない。
悔いも糧である。
おそらく、岸さんはそう思って今を生きてきたのだと思います。
人生というのは、心の体験である。
心がどう思うかで、人生はどうにでもなる。
わりなき恋のヒロイン、笙子は、岸さんの分身で、前向きでひたむきです。
岸さんは、笙子の物語を書くことで、自らを勇気づけ、浄化しようとしたんだと思います。

岸さんは離婚経験者ですが、自分のことをマルイチだっておっしゃっています。
普通は離婚するとバツイチなんですが、岸さんはマルイチなんです。
どんな体験も岸さんは自分の中で昇華して、それを糧としていきていく。

岸さんって若いですね。
お若く見えますねって言われると、若いんですっておっしゃる。
それで、これから年をとったらとおっしゃる。
充分お年は召しておられますよって思うんですが、岸さんはほんとにそう思っておられるんです。
岸さんを見ていると、ほんとに人間は心の中なんだと思います。
いつも全身です。全身で喜んで、全身で怒って、全身で考えて・・・全身で今という時間を生きておられる。
だからきっと年を取らないんです。

最近、岸さんとよく話すんです。
女優って感じがしない。
人に気をつかわせない。
それで結構なんでもいいます。

岸さんって変だとわたしはいつもいうんです。
実は、これ稽古期間がすごく短いんです。

わたしはこの前に、十朱幸代さんと、司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中の、お雪という登場人物に焦点を当てた朗読劇をやったんですが、もう六か月前から稽古を始めました。
十朱さんは超真面目な人で、稽古大好きなんです。
まあ、月に一回とか二回ですが、そして最後は、一月近くやりました。
この舞台について少し触れさせていただければ、最後にお雪は、土方歳三の死にいたる情景を語ります。ほぼ十分はあるんですが、覚えていただきました。ある方はそれを見て、十朱さんの演技は泣き過ぎだとおっしゃった。わたしは答えました、あれは演技じゃないですと。
その人は演劇を作りものだと思っているんです。
俳優の演技を見て、なんてうまい演技なんだろうと感心する。
それは言葉を変えて言えば、それらしい感情を作るのが上手ってことです。
嘘をつくのが上手ってことです。
そして一番、それらしく嘘をついた人に演技賞をあがる。
わたしはそうじゃない演劇を目指したいと思っています。
言葉の奥には真実の感情がある、そんな芝居です。

司馬遼太郎は、膨大な資料の中から土方歳三という幕末を生きた一人の男の人生を描きました。
それは土方歳三というまっ黒な人生を、書くという行為で、真っ白にしたかったのだと思います。
だからわたしは十朱さんに、お雪として、土方の人生を浄化するために泣いてほしかった。
だから涙は必要だった。でも演技での涙ではいけなかった。
あの時の十朱さんは、完璧に理性的です。
でも、涙で言葉が出てこない瞬間があった。
わたしは十朱さんにこういうふうに言いました。
お葬式で、死んだ人を送る時、言葉が詰まるじゃないですか。
十朱さんが言葉に詰まるのは、それはお雪の歳三への愛の強さ、深さゆえであり、十朱さんがそのお雪を生きているから、そうなってしまうんです。
どこにも作った感情はありません。
歳三はそのお雪の涙に浄化されて、この世を去っていく。
十朱さんは、司馬遼太郎のこの作品に込めた思いを、舞台の上で実現したのだ、そのように思っています。

そうそう、この「蟬しぐれ」は、新潟発の「物語の女たち」というシリーズの四作目で、この前には奈良岡朋子さんで、「黒い雨」をやりました。
奈良岡さんはほんとうに素敵でした。
奈良岡さんは八十三歳です。
昭和二十年、つまり原爆が広島、長崎に投下されたとき、奈良岡さんは十七歳でした。
そして「黒い雨」の中に、こんなくだりがあります。

被爆で殆ど全滅した勤労奉仕の中学生たちは、八月五日の日まで毎日家屋疎開の作業を手伝っていた。勤労奉仕の女学生たちは白鉢巻をして「学徒挺身隊」の腕章を巻き、行きも帰りも「動員学徒の歌」を合唱しながら団体行進で製鉄所へ通っていた。

奈良岡さんはどうしても、そこにくると止まってしまうそうです。自分もまた、白鉢巻をして、歌を合唱しながら行進していたからです。
だから、なるべく感情を殺して、そこを通り過ごそうとする。
でも、やっぱりいろんな思いがこみ上げて来て、止まってします。
最後の公演が、紀伊国屋であって、わたしはそれを見ました。
やはり、奈良岡さんはそこで止まってしまった。
すると劇場中が、止まるんです。
息を飲んで、止まっている奈良岡さんを見ている。
奈良岡さんの心に起こっていること、心の中で嵐がまき起こり、奈良岡さんはその嵐と闘っている。
お客は実は、その嵐と闘っている奈良岡さんを見ているんです。
その心の中の情景にみんな飲みこまれているんです。
わたしはその時、思ったのは、これが演劇なんだってことです。

さて、岸さんです。
ちょっと脱線しました。
十朱さんはすごく稽古をしたという話をして、それに比べて、岸さんが稽古を始めたのは本番の一週間前です。
それも大体稽古時間が、二時間か三時間くらい。
家でもあまり稽古はしないのだとおっしゃっていました。
で、初日には半分くらい、そして公演半ばには、ほとんど覚えておられるんです。
一時間三十分ひとりでしゃべるんです。
それを数十回読んだだけで、ほとんど覚えているんです。
八十一ですよ。
一体、あなたの記憶力というのはどうなっているのか、もう信じられないですよ。
変ですよね、絶対。
人間じゃないです。
考えられない。
だから岸さんに変だっていうんです。
目だって、老眼鏡なしで読んでるし。
時々、舞台でぴょんと跳ねるし。

よく間違えるんです。
それは読んでないからなんです。
どこにも作った感情がない。
その日の気分次第。
わたしは帆が風をはらんで水上を走る船のようだっていってるんです。
その日の風次第、どこへいくのかわからない。
本人もわからない。
ちょっと揺れるし、水を被るかもしれない。
わたしは毎日はらはらしてみてるんですと岸さんにいうんです。
すると、また間違えるんじゃないかって思ってるんでしょう。
いや、思ってません、間違えたって全然気になりませんから。
全然、間違えないと、物足りないくらいです、そう言ってます。

うまいか下手かって言われれば、けっしてうまいとはいえない。
でもこんなに自然に、豊かに、本を読める方はいらっしゃらないと思います。
そう思ってみなさん、舞台をお楽しみいただければ幸いです。
そして見終わって、心を満開してお帰りいただければと思います。

公演スケジュール